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    カテゴリ: 歴史



    (出典 t18.pimg.jp)



    1 通り雨 ★ :2017/09/12(火) 03:23:37.93 ID:CAP_USER9.net

    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170912-00000004-mai-soci

    9/12(火) 3:00配信
    <明智光秀>密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ

     本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはし・しげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。【松本宣良】

     藤田教授によると、書状は岐阜県の美濃加茂市民ミュージアムの所蔵。和歌山県内で伝えられ京都府の古書店に渡ったものを美濃加茂市の篤志家が入手して寄贈したという。

     鳥居和之・名古屋市蓬左(ほうさ)文庫長らとの共同調査で、形状や紙質などから手紙の原本と断定し、筆致や署名、花押から光秀自筆の可能性が高いと結論づけた。本能寺の変に関する光秀自筆の書状は極めて珍しい。

     書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられる。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」とあった。

     京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下にある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいた。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。

     書状の手書きの写しは東京大史料編纂(へんさん)所に残っていたが、原本は縦11.4センチ、横56.8センチで、細かな折り目がついていた。畳んで書状を入れる包み紙も一緒にあったことから、使者が極秘に運んだ密書とみられる。

     本能寺の変の動機では、2014年に岡山県で見つかった石谷(いしがい)家文書などから、光秀と懇意で信長と敵対関係になった四国の戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の窮地を救うために起こした「四国説」も浮上している。

     光秀は京に上る前の信長と義昭を取り持ち当初は双方の家臣だったとされる。藤田教授は「義昭との関係を復活させた光秀が、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたのでは」と話す。

     光秀は書状の日付の翌日、備中高松城(岡山市)から引き返した羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで敗れ、逃げる際に命を落とした。

     ◇発見された書状の現代語訳

     ◆本文

     仰せのように今まで音信がありませんでしたが<初信であることの慣用表現>、上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています。そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要です。

     一、雑賀衆が当方に味方されることについては、ありがたく存じます。ますますそのように心得られて、相談するべきこと。

     一、高野衆・根来衆・雑賀衆が相談され、和泉・河内(ともに大阪府)方面まで出陣されることはもっともなことです。恩賞については当家の家老とそちらが話し合い、後々まで互いに良好な関係が続くように、相談するべきこと。

     一、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県南部)までことごとく平定することを命じ、それがかないました。ご心配されることはありません。なお使者が口上で申すでしょう。

     ◆追伸=書状では冒頭にあり

     なお、必ず(将軍の)ご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です。詳細は上意(将軍)からご命じになられるということです。委細につきましては(私からは)申し上げられません。

     訳・藤田教授

     【ことば】本能寺の変

     天正10(1582)年6月2日、京都の本能寺に宿泊中の織田信長が謀反した明智光秀に襲われ自害した。信長は羽柴秀吉の毛利攻め救援で出陣する途中だった。秀吉は急きょ引き返し、京都・大阪府境で起きた山崎の戦いで光秀を破った。光秀の動機は信長の隙(すき)に乗じ天下を狙った「単独謀反説」や「怨恨(えんこん)説」など諸説ある。


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    (出典 www.hodaka-kenich.com)



    1 のっぺらー ★ :2017/08/30(水) 09:47:48.14 ID:CAP_USER.net

    江戸時代後期に参勤交代で江戸に詰めていた鳥取藩士が、鳥取に残る妻に宛てた手紙が、
    鳥取市内の民家で見つかった。
    江戸での仕事や暮らしぶり、家族を思う気持ちなどがしたためられており、
    専門家は「江戸詰武士の本音が垣間見える貴重な史料」としている。
    (高山智仁)

    手紙は、鳥取市内の個人が所有していた屏風の下張りにされていたのを、
    古文書の収集・解読を行っている同市の大沢邦彦さん(71)が5年ほど前に譲り受けた。

    大沢さんによると、差出人は鳥取藩士・城戸左久馬(生年不詳~1853年)。
    1817~18年と23~26年の2回、8代藩主・池田斉稷の参勤交代に付いて江戸に滞在した際、
    妻のお力らに宛てて書かれ、返信も含めて約180通に上るという。

    手紙では、冬場の公務の厳しさについて触れ、
    「綿入れを重ね着しているが、それでも寒い。手は赤く腫れ上がり、感覚がない」と記述。
    斉稷の妹が嫁いでいた薩摩藩邸を訪ね、泡盛やマグロの刺し身で歓待を受けたことなども記されていた。

    故郷に残してきた息子を思う内容も多い。
    「おねしょはしていないか」と心配したり、初めて書いた手紙の文字を見て
    「驚くほどきれい。私が鳥取に帰ったら、師匠をつけて本格的に学ばせたい」と喜んだりする
    子煩悩ぶりが読み取れる。

    また、2度目の参勤交代の際には、
    当初1年の予定だった滞在が、行事が重なるなどして3年に延長されたことに言及。
    「来年も帰れなかったら、もう役職を辞めようと思う。でもここまで務めたしなあ」と、
    心の葛藤を妻に漏らす手紙もあった。

    大沢さんは8割程度を解読し終えたといい、
    「武士の世も、今と変わらない人間模様が読み取れ、ほほ笑ましく感じる」と語る。

    県立博物館の来見田博基・主任学芸員(近世史)は
    「公的な史料には残っていない江戸詰武士の内情が書かれていて興味深い。
     これほど多くの手紙が見つかることは珍しく、貴重な研究史料になるのは間違いない」と話している。

    写真:鳥取藩士の手紙を解読する大沢さん

    (出典 www.yomiuri.co.jp)


    以下ソース:YOMIURI ONLINE 2017年08月30日
    http://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/news/20170829-OYTNT50242.html


    【【鳥取】 参勤交代 妻へ本音つづる 鳥取藩士の手紙180通発見[08/30]】の続きを読む


    龍馬暗殺から150年、坂本龍馬を斬った男・今井信郎を顕彰する理由とは? - THE PAGE
    静岡県島田市の初倉地区で、坂本龍馬を暗殺したとされる旧幕臣、今井信郎を顕彰する取り組みが行われている。折しも今年は、坂本龍馬が京都・近江屋で暗殺されて150年。全国で坂本龍馬展が開催される中、同地区では今井信郎を顕彰するのはなぜなのだろうか?
    (出典:THE PAGE)



    1 風吹けば名無し@\(^o^)/ :2017/06/27(火) 13:57:42.54 ID:9s6gYOyy0.net

    ワイ「本能寺の変やろ」


    【タイムスリップして歴史の事件何見たい? 馬鹿「本能寺の変」アホ「坂本竜馬暗殺」ワイ「ハァ…」】の続きを読む


    直筆の手紙6枚発見 兄に寺田屋事件の話つづる - 毎日新聞
    高知県は16日、幕末の志士・坂本龍馬が兄らに宛てて記した直筆の手紙6枚が新たに見つかったと発表した。1866(慶応2)年、京都・伏見の旅館で幕府側に襲撃された寺田屋事件後の様子などを報告している。今後所有者から県が買い取り、来春から県立坂本龍馬記念館( ...
    (出典:毎日新聞)



    1 風吹けば名無し@\(^o^)/ :2017/06/27(火) 13:57:42.54 ID:9s6gYOyy0.net

    ワイ「本能寺の変やろ」


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    (出典 pds.exblog.jp)



    1 朝一から閉店までφ ★@\(^o^)/ :2017/06/29(木) 19:51:21.83 ID:CAP_USER.net

    毎日新聞 2017年6月29日 19時15分(最終更新 6月29日 19時21分)
    (画像)
    板垣退助が購入したルイ・ヴィトンのトランク=高知市立自由民権記念館提供
    (画像)
    板垣退助が購入したルイ・ヴィトンのトランクについていたタグ=高知市立自由民権記念館提供
    https://mainichi.jp/articles/20170630/k00/00m/040/046000c

     仏高級ブランド「ルイ・ヴィトン」のかばんを日本で初めて購入したのは誰か--。この謎に高知県はこれまで、土佐藩士の後藤象二郎と紹介してきたが、さらに3週間早く自由民権運動の指導者、
    板垣退助が購入していたことが分かった。板垣を顕彰する「板垣会」の公文豪・副理事長(68)がルイ・ヴィトンジャパン(東京都)を通じてパリ本店に照会して判明した。

     ともに土佐藩士だった板垣と後藤は1882(明治15)年、横浜からフランスの郵船に乗り、香港などを経てパリに到着。その後もロンドンなどを外遊し、翌83年に帰国した。

     公文副理事長によると、ルイ・ヴィトンジャパンの初代社長、秦郷次郎氏が著書の中で、後藤の顧客カードを、写真と共に紹介。これがもとで「後藤が日本人初の顧客だった」との説が広まった。

     しかし、昨年、東京都内であったルイ・ヴィトンの展覧会を機に、公文副理事長が同社を通じて購入記録を照会。記録によると、1883年1月9日に「Itagaki」という人物が、シリアルナンバー「7720」のトランクを購入していることが判明し、
    名前とナンバーが、板垣の子孫が保管していたトランクと一致した。この3週間後の同月30日、後藤が二つのトランクを購入した記録があるが、現物が確認されておらず、後藤はこれより前にパリを出発していたという。

     公文副理事長らによると、板垣や後藤よりも8年早い75年、元薩摩藩士でフランス公使の「鮫島尚信」とみられる購入記録もあるが、現物が未発見で、実物で裏付けられる最初の購入者は板垣とみられる。

     板垣のトランクは現在、高知市立自由民権記念館に寄託されている。公文副理事長は「板垣の洋行に関わる第一級の資料だ」と指摘。県観光政策課は「あくまで通説の一つとして『後藤が最初』と説明してきた。新事実をきっかけに幕末や明治維新への関心が高まればいい」としている。【松原由佳】


    【【歴史】[ヴィトン] 日本初かばん購入者は板垣退助 本店照会で判明[06/29]】の続きを読む

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